飛び梅


それはシアターの屋上を歩いていた時のことだった。
「……?」
風に乗って運ばれてきた匂いに新次郎は足を止めた。
ほのかに甘いその香りはここ紐育の地に本来あるはずがないものだ。
気のせいだろうか。
新次郎は風上に向けて深く息を吸い込んでみた。
…間違いない。新次郎は確信すると、匂いのしたほうへと歩き出した。サロンを横切り、屋上庭園の奥へと進んでいく。
庭の片隅、植え込みの向こう、見事な枝振りの松に囲まれた場所にそれはあった。
それは小さな二本の梅の木だった。
背丈はどちらも新次郎とそう変わらない位だろうか。片方は赤い花、もう片方は白い花を付けている。
そしてそこには先客がいた。
「――やあ、大河くん。キミもウメミかい?」
こちらが声をかけるより早く振り返ったその人―――シアターのオーナーであり、この庭の主でもあるサニーサイドが言う。新次郎は急いで会釈した。
「…ええ、まあ……サニーさんも梅見ですか?」
「そうだよ。奇遇だねえ」
「はい」
「…遠慮しないで、もっとこっちおいで。そんな遠くからじゃよく見えないでしょ?」
言いながら手招きするサニーサイド。その言葉に新次郎は素直に甘えることにした。
「わあ……」
近くまで寄るとそこは芳醇な梅の香が立ち込めていて、思わず新次郎は感嘆の声を上げた。
七分咲きの紅梅と白梅が並んで花ほころばす姿は楚々として慎ましく、目を閉じれば鶯の声が聞こえてきそうだ。
「こんな所に梅が生えてるなんて、知りませんでした」
「はは…そうかい。まあ花が咲いてないと目立たない木だからねえ」
新次郎の言葉にサニーサイドが笑う。
「ウメもいいもんだよね…サクラみたいな派手さはないけど。風流って言うかさ…ニッポンではこういうのを何て言うんだっけ?…ワ、…ワ……」
「…侘び寂び?」
「そうそう、それそれ」
まさにニッポンの美、ニッポンの心だよねえ。
自他共に認める派手好きである一方、盆栽を趣味としているサニーサイドが言う。新次郎も頷いた。
するとそれに気を好くしたのか、サニーサイドの演説が更に続く。
「ウメの盆栽もあれはあれで素晴らしいんだけどさ…匂いまではどうしてもねえ」
「そうですね」
「やっぱり本物のある庭はいいものだね。…と言ってもここにウメが咲いたの、実は今回が初めてなんだけど」
「え…そうなんですか?」
「うん。シアターがオープンしたのは去年の一月だけど、その時にはまだこの庭は未完成でね。この木をここに植えたのは花の季節が終わった頃…確かキミが紐育に来る少し前だったかな」
「へえ…そうだったんですか…」
つまりこの梅は自分の同期ということか。なんとなく親近感を抱いた新次郎は嬉しくなり、目を細めた。
「――それにしても…ちゃんと花を咲かしてくれて良かったよ」
白梅の一枝に手を伸ばし、サニーサイドは言う。
「植物も生き物だからね。難しいよね。うまく根付かなくて枯れてしまった姿を見るのは…嫌なもんだよ」
「……」
掌中の花に目を落としながらサニーサイドが言った言葉はどこか独り言めいていて、相槌を打つべきなのかどうなのか新次郎は咄嗟に判断できなかった。
さあ…っと強い風が吹く。
梅の枝を揺らし、通り抜けていく。
「――ところでさ…」
風の音が止んだ頃、それを合図にしたようにサニーサイドが口を開いた。
「ニッポンではウメの木が空を飛んで移動するって聞いたんだけど、ほんと?」
「…は?」
突拍子もない質問に新次郎の目が思わず点になる。
確かに種子や花粉が風に乗って移動することはある。だが木そのものが空を飛べるはずがない。
この人は日本を何だと思っているのか……新次郎は呆れたように溜息をついた。
「…何言ってるんですか。空飛ぶ梅なんて、あるはずが―――」
そこまで言いかけてふと、新次郎の脳裏にある一つの単語が浮かぶ。
「…もしかして…『飛び梅』のことですか?」
「トビウメ?」
なんだかトビウオの親戚みたいだねえと、おかしげに笑うサニーサイドを無視し新次郎は飛び梅に関して自分の知る内容を語りだした。

今から約千年ほど昔、菅原道真が政敵によって京の都を追われ、太宰府の地へ流されたこと。
都落ちの際、道真は日頃愛していた梅の木との別れを惜しみ、歌を詠んだこと。
するとその想いが天に通じたのか、京の邸宅から太宰府まで主を追い、一夜にして梅の木が移動して根を下ろしていたこと。
空を飛んだとしか考えられない奇跡を人は「飛び梅」と呼び、後の世まで伝説として語り継がれたという。

「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな―――確かこんな歌だったと思います」
最後はそう締め括り、新次郎は口を噤んだ。少しだけ、遠い目をして。
「――大河くん」
「…はい」
いつの間にか梅から新次郎へと視線を戻していたサニーサイドがおもむろに呼びかける。
呼ばれて新次郎も振り返る。それを待ってサニーサイドは口を開いた。
「もしも空を飛べたら…キミはどうしたい?」
「え…?」
「ニッポンに帰りたいかい?」
即答できなかった。
頷くことも首を横に振ることも、何故か躊躇われた。サニーサイドはそんな新次郎をただ黙って見下ろしている。
何か、言わなければ。新次郎は意を決し、口を開いた。
「…そりゃ…帰りたくないと言えば嘘になりますけど…」
サニーサイドの質問の意図が分からない以上、あれこれ考え込んでも無駄だろう。正直に本音を話すしかない。
「母さんの顔も見たいし…ご飯だってたまには日本のものが食べたいし…もしも長期休暇が戴けるんでしたら一度は帰りたいです、けど…」
訥々と語りながら、少しずつ頭の中を整理していく。
「…でも、必ずまたここに…戻ってきます。ここが…紐育が、今のぼくの居場所ですから…」
居場所。そう、居場所なんだ。
その言葉に新次郎の中で全ての符号が一致した気がした。見る見るうちにパズルのピースが埋まっていく。
「みんなが…紐育がぼくを必要としてくれている限り、ぼくはここにいます。それをぼくも望んでいるから」
以前の自分なら決してこんな風に断言できなかっただろう。
でも今は違う。これまで紐育で過ごしてきた日々の全てが自信となって、新次郎を支えていた。
今なら胸を張って言える。望み望まれて、ここにいるのだと。
「…だから帰りたいけど、帰りません。…それじゃいけませんか?」
ありったけの思いを込めて、きっぱりと言い切った。
ところが――――
「ハッハッハッハッハ!」
「…!?」
返ってきたのは爆笑だった。
「…え、え、えええ…?!」
まさかそういう反応が返ってくるとは思いも寄らず狼狽える新次郎をよそにサニーサイドは肩を揺らし、心底おかしそうに笑っている。
「ぼく、そんなにおかしなこと、何か言いました!?」
「はっはっはっ…いやいや、…はっはっはっ…」
「サニーさん!」
なかなか笑い止まないサニーサイドに次第に腹が立ってきた新次郎が思わず叫ぶと、ようやく笑い声を収め、サニーサイドは言った。
「ははは…ごめんごめん。つい笑っちゃって」
そう謝りながらもまだ声が笑っている。それが新次郎には面白くない。
「…だから!なんで笑うんですか!」
「だってさ、おかしくって…」
「な…」
「いやー…大河くんて本当に面白いこと言う子だねえ」
言って喉の奥でくつくつと笑う。何がおかしいのか全く心当たりが無い新次郎は憮然としつつ、拗ねた口調で呟いた。
「ひどいですよ…ぼく真面目に答えたのに…」
「うん、そうだね。でもそこがキミの面白いとこなんだけどね」
「……」
何を言っても無駄だと悟った新次郎はぷいとそっぽを向いて黙ってしまう。
そんな新次郎をサニーサイドは愉しそうに眺めていたが、ふと空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「…あんまりそういうことは言うもんじゃないよ」
「え…?」
思わず顔を上げ、聞き返す。しかし新次郎より頭一つ高い身長差に阻まれ、その表情はよく見えない。
「…どういう意味ですか?」
突然、見えない壁が現れたような感じがした。それでも訊かずにはいられなかった。
「んー…」
サニーサイドが振り返る。
目を細め、小さく笑って言った。
「ヒミツ」
「…ええっ、なんですか、それ…!気になるじゃないですか、教えてくださいよ!」
「だーめ、教えてあげない」
案の定いつもの調子ではぐらかされた。そのことに何故かほっとする。
しかしそれを態度には見せず、新次郎もいつものように振舞う。
「少しは自分で考えてごらん」
「考えてもわからないから、訊いてるんじゃないですか―――」
そのまま取り留めのない言い合いに突入するかと思われた、そんな時だった。
「―――大河さーん…!」
遠くで新次郎を呼ぶ声がした。杏里だ。
「大河さーん、ちょっと手伝ってほしいんだけどー!」
どうやら自分を探しているらしい。新次郎はちらりとサニーサイドを窺った。するとサニーサイドは新次郎が言い出す前に、新次郎の背中を押して言った。
「いいよ、いっといで。ボクはもう少しここでウメを見てくからさ」
「あ…はい。それじゃ、お先に…」
「大河さーん!いないのー?」
「ほら急いで急いで。あんまり女の子を待たせるもんじゃないよ」
今にも痺れを切らしそうな杏里の声に急かされつつ、それでも律儀に挨拶してからその場を辞そうとする新次郎をサニーサイドはひらひらと手を振って追い払う。
新次郎はぺこりと頭を下げると、踵を返し駆け出した。その後姿は枝葉を伸ばし生い茂る植え込みの向こうに消えて、すぐに見えなくなる。
「おーい、杏里くん、おまたせー」
「あ、いた!…もー、いるんなら返事してよね!」
「ごめんごめん、ちょっと取り込み中でさ…」
「よく言うわよ。どうせその辺でサボってたんでしょ?」
「うっ…それは、その…」
しばらくは二人して言い合う声が聞こえていたが、それも徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
静けさを取り戻した屋上に、風の音だけが残った。
さやさやと葉擦れの音がする。耳を澄ませば遠くに街の喧騒もかすかに聞こえる。
サニーサイドは再び梅に目を向けた。
「…大河くんて本当に面白いこと言う子だねえ」
紅白の花に向けて話しかける。
風に揺れる枝はまるで、その言葉に頷いているようにも見えた。サニーサイドの口元に小さく笑みが浮かぶ。

『あんまりそういうことは言うもんじゃないよ』
『…どういう意味ですか?』

先ほど交わした会話が脳裏に甦る。
記憶の中の新次郎に再び問いかけられ、サニーサイドは静かに口を開いた。

――――手放したくなくなるじゃないか。

他に聞く者もないその言葉は梅の香に溶け、風の中へと散っていった。





満開の桜の木を見ていたら思いついたお話。(梅だけど)
片想いなサニーさんを夢見てみました。